Essay |
音楽の行方
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「さて、コンピュータでなにをしようか?まずはワープロから」 そして美しく体裁の整った文書ができあがり。 「次は絵を描く?フォトレタッチ?このコマンドを実行すると?スゴイスゴイ!芸術的!プロみたい!」 てな具合でコンピュータが楽しくなってきた(僕もそうだった) 「次は HP(ホームページ)制作、次は DTP(デスクトップパブリッシング)その次は動画の編集・・・」 と、ここまでは深く考えずにコンピュータのアルゴリズムに任せて、切った張った(貼った)で何とかなってきた。 「オーッ!!!・・・スゴイスゴイ!!!」 ここで何がスゴイってそれは CPU をはじめとするハードウェアの処理能力とソフトウェアのアルゴリズムがスゴイのである。(フォトレタッチ、DTP、動画編集など一人で何種類ものソフトを深いところまでほぼ完璧に習得している人を見るとこちらは本当にスゴイ) 「次は DTM(デスクトップミュージック:要するにコンピュータによる音楽で、和製英語)いってみよーっ!」 ところがこの DTM、ネット上にある著作権フリーや市販の SMF(スタンダードミディファイル)の再生をして聴いてるぶんにはいいのだが、MIDI データを扱っての入力や編集を始めるとなると、実はそれまでのソフトと違って入り口付近でいきなり音楽の知識を要求してくるのだ。 もちろん文学や絵や動画も学問として確立されているしレベルが上がれば上がるほど知識が必要になってくるのだが、文学なら日常的な会話やメールのやりとりの中で同じようなスキルを発揮せざるを得なかったり、絵や動画なら乱暴な言い方をすると見たまんまだから‘あーすればこーなる’という道筋が視覚的に判断しやすい部分もあると言えるし、ある種の融通が利いたりもする。言い換えるとまぐれもありかな?と・・・(まぐれはスキルとして蓄積してしまえばOKなのだ) すでに出来上がったオーディオファイルを切り貼りするような場合や、偶然によるアバンギャルド(計算によるアバンギャルドにはその筋のバックボーンが必要)を狙うような音楽は別として、MIDI やオーディオを扱ってイチから音楽を構築したり編集したりする上では、状況にもよるが現在(2000年)のところまぐれは期待しないほうがいいだろう。不協和音にも条件によって気持ちいいものと悪いものがある。気持ちの悪い不協和音は万人が聞いて気持ち悪いものと理解しよう。 もちろんアマチュアの人でも MIDI データ制作や編集を楽しむに十分な知識とスキルを持っている人もいる。そうではない普通の人達からは少なからず MIDI で挫折したという話は本当によく聞くのだ。音楽のすごさというのは実はこの辺りにもあると思う。君たち!音楽をなめちゃいかんよ。 でもね、プロでもそうなのだが、音楽というぐらいだから楽しまないとね。SMF の再生やオーディオファイルの切り貼りも遊んでしまえば楽しいもので、そのへんから入って行って、例えばあるキーの曲を別のキーの曲と強引につないだときにかっこ良くなる場合とかっこ悪くなる場合がある。そんなことを感じながらやってるうちに気持ちいい音楽の規則性のようなものが見えてきて、知識となっていくのだ。切り貼り系のアーティストでセンスがいいと言われている人はそういった経験的知識も豊富なのだ。 ここでは音楽というジャンルが少し特殊な部分を持っているということを書いた。文学や絵や動画は、入り口はすんなり入れてもやっぱり奥は深いから上に上がるのは大変なことであるには違いない。 琴線に触れる文章によって感動させられたり、細かく描き込まれて命を与えられた美しいCGや、ソフトのアルゴリズムを熟知した特殊効果をそれこそ効果的に利用した動画を観ると脱帽!しちゃうもんね。 |
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僕は一般論として、音楽制作のスタッフには音楽に対する感性はもとより知識も少なからず必要だと思っている。現場のプロデューサー(ディレクター)はそれに加えて歌詞に対する一般的な理解とアイデアも必要となってくるので大変だ。これらの能力をすべて備えたプロデューサーからは学ぶところが多い。 音楽は、ある種のものを除くとすべての人が聴いて楽しめるものだ。だけど音楽制作スタッフのようにそれを作ることを職業として直接現場で制作に関わって行こうという人は、ある程度なら努力でも身に付く音楽知識をあらかじめ備えてからその職に就いたほうが何かと有利ではある。 中にはアーティスティックなプロデューサーで、その天才的なひらめきさえあればそれでよしと周りが認めるような人は別として、一般的には音楽知識もある程度あった方がより良い。 この種の知識/能力は何もアカデミックである必要はまったく無い。ミュージシャン(アーティスト、プレイヤー)はあらかじめ持っていないと現場まで来れないとして、プロデューサー(ディレクター)、エンジニア(アシスタント、録り、ミックス、マスタリング含む)にとって、本来の専門分野の知識/能力+αとして不可欠とまでは言わなくても、アドバンテージにはなると言える。 例えば生のストリングスを録るときモニターにリバーブをかけることがあるが、このリバーブ、気を付けないと多かれ少なかれ特定のピッチを増幅させてしまうところがある。そのピッチの幅がある程度広ければ自然な感じでかかるのだが、たとえそれがメーカーで用意されたプリセットであっても機種やパラメータ値によってはほぼ特定のピッチのみを増幅してしまうことがあるのだ。 一部エンジニアの間では往年の名機と言われている国産デジタルリバーブがある。名機というぐらいだから上手に使ってあげれば真価を発揮するのだろうけど、使い方次第で良くも悪くもなる。 以前あったのが、キーが A Major(イ長調)の曲のとき、デジタルリバーブのいたずらで音叉のピッチ A(440Hz) の4度下の E(330Hz) のさらに半音下の Eb(313Hz) 辺りが(ここで言う辺りとはかなり幅が狭い)モッコリふくらんで(増幅されて)いた。その結果どうなるかというと、顕著な場合ストリングスの人達の出す音が E(330Hz) や D(297Hz) を通過するたびに Eb(313Hz) が共鳴(増幅)し、その結果不協和音となるのだ。ブルージーな曲ならブルーノートと解釈するとして(そ、そんな・・・)ポップな曲ではかなり気持ち悪い。そのうち、 「この人達ピッチ悪いね」 という話が出てくる。 プレイヤーが演奏するときに聴いているモニターには問題のリバーブはかかってないから気持ちよくプレイしてるのに、録ったものを聴くときはリバーブがかかっていて、なぜか気持ち悪い部分が随所にあるのでプレイヤーはそこで???、これが自分(達)の出している音なのかという不安も出てきてスタジオ内の空気が重くなる。ところがそうこうしているうちに録ったものをハダカ(録った音のみで)で聴いてみると全く問題なく録れてるのだ。ここでプレイヤーはエンジニアに疑念を持ち始める。でも、幼いときからの楽器演奏に対する熟練と、音楽を芸術としてアカデミックな教育を受けてきたほとんどのストリングスの人達に、デジタルエフェクトがどうすればどういう影響をもたらすかなんて理解できる人は少ない。それでも原因をはっきりさせたいストリングスセクションのリーダーは、 「なんかフランジャーみたいにピッチを揺らすようなエフェクターかけてない?」 とかいうのだが、それもエンジニアから「いいえ」と言われればそこで終わってしまう。僕はタイミングを見はからって、 「これって(原因は)リバーブでしょ」 でも、エンジニアからは、 「それはないです、ごく普通の‘プレート’で、プリセットのまんまですから」 彼は信じきっている。 こういう現場ではできるだけ重い空気にならないように、できることなら誰も傷付けることなく事を運ぶことが肝要だ。それ故、一撃で原因をはっきりさせるのではなく少々紆余曲折の末、リバーブをはずして解決。 これにはさほど特別な能力はいらない。聴いているときに実際にプレイヤーが出してる音とエフェクト音が聴き分けられればよいことであって、エフェクトごと一つのトラックにまとめてかけ録りしてモノラルになっているものならわかりにくくても、ステレオエフェクトの場合その定位を感じれば少しわかりやすくなる。ストリングスでステレオソースにステレオエフェクトの場合であっても、発音タイミング+定位+質感の違いを感じ取るのだ。実際に弦を擦ったときに出る音と、ちょっと遅れて出てくるステレオ定位の音・・・おかしい?と思ったら即エフェクト音のみの検聴をすることだ。エンジニアなら誰にも気付かれることなくそれができるのだから。 こういった音に携わるエンジニアやプロデューサーは自分の耳が頼りであると同時に、日々酷使する自分の耳をリファレンス(参考)にしても良いのか不安になるときがある。そして時々その対策をそれぞれのやりかたで行っている。過去に聴いて感動したCDや、最新のヒットCDをリスナーとなって聴くこともその一環だ。 リファレンスは耳だけでなく、数多あるメーターやアナライザなどをはじめとする、音の状態を目で見る事ができる機材からのデータと過去の経験則との照合、さらに時間の制約が厳しいときなどは、今回のように機材のプリセットなども・・・ ところが、このように高価な測定機器を備えた有名音響機器メーカーが作ったプリセットのまんまだからといって安心できないのだ。さらに言うなら音楽の現場で使われる機材を作るメーカーのエンジニアには、リファレンスにされる可能性が制作現場への貢献になるという自覚と自負が必要だ。故にサウンドデザイナーの育成なども大切なのだ。 ‘往年の’名機と言うぐらいだからやはりまだいろいろ過渡期としての不完全な部分もあったのかもしれない。いまどきのモデルではかなり解決されているのだろう。(でも油断は禁物) |
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1996年12月12日、ヒースロー空港に着いた僕はロンドンの比較的中心部にあるイタリア人が経営する小さなホテルに直行した。この日はもう寝るだけだ。部屋は7号室、ホテルの部屋番号が一桁というのもなかなか味わい深いものがある。少々巻き舌気味の英語を話す青年からキーを受け取り、建て付けの悪いドアを気合いで開け、部屋に入るとすぐに MATSUI ブランド(MATSUSHITA と間違えて買う人がいるらしい)のテレビのスイッチを入れた。年末のこの時期、その一年間で大活躍した人を讃える番組が目白押しで、この年のF1ワールドチャンピオンになったイギリス人レーサーのデーモン・ヒルは、国民的英雄としてあちこちのテレビ局の「1996なんたら大賞」に引っ張りだこだった。 翌日、レコーディングスタジオでイギリス人プロデューサー PAUL STAVELEY O'DUFFY(ポール・オダフィー)を紹介された。前夜テレビで見たデーモン・ヒルに似た長身で渋めの人物だが、レコーディングが始まって1時間もしないうちに本性をあらわし始めた。この男、コメディアンと紙一重なのだ。 数日間彼を見ているとプロデューサーとしての自身の能力を発揮しているのはもちろん、誰に対しても自分自身の愛すべき部分をアピールする能力に長けていることに気付く。そしてそれが演出臭もなく、ごく自然なのだ。何かの折りにスタジオに入ってきた日本人女性を見たポールは彼女が好みのタイプだったらしく、本人に聞こえないように「なんてかわいいんだ」と小声でつぶやいていたその時の彼の顔は真っ赤になっていた。そんな純粋な面も持っている愛すべき人物なのだ。 そんなキャラクターと笑いの才能を持ったこの人はエンジニアからプロデューサーになった人で、こだわる部分になると、自らがコンソールを操ることもあるがそれも気が済むと、すぐ寡黙な本来のエンジニアにバトンを渡し、そこで一発ギャグを飛ばすのだ。適材適所の見本を見ているようだった。 レコーディングという作業は、アーティストやプレイヤーのメンタリティーが、録音される歌や演奏の善し悪しにまで影響してくるということもあって、重い空気は禁物なのだ。 偶発的な機材のトラブルやちょっとした取り返しのつくミス、段取り上のミスによる滞りも重なれば、ある臨界点を越えたところでだんだんと重い空気が漂い始める。元々寡黙な人はそんなタイミングでトイレなどに行ってはならない。怒って出ていったように見えるのだ。その場はがまんして、よほどのひらめきがない限りしばらく様子を見た上で、マイナスのメンタリティーの人を励ますというのも一つの方法だ。 そんな時にどんな現場であろうと必ず盛り上げるような天才的な人物が一人いると助けられるのだが、だれがどういう方向でその場を盛り上げるかが大事なポイントなのだ。お笑い的な方向に場を盛り上げるというのは天性の才能が必要で、その才能を持った人はその方向で盛り上げてくれればありがたいのだが、その才能を持った人のポジションがエンジニアだった場合、少々話が変わってくる。つまり、エンジニアだけはその方向には行き過ぎない方がよいということだ。 もしエンジニアに天才的な笑いの才能があったとしても小出しにできればよいが、有り余る才能で一気にイってしまった場合、仲間内だけの場合は別として、その人のエンジニアリングそのものや理論にまで疑いを持って見る人が出てくるのだ。 空気が重くなったとき、エンジニア以外の人の中からそういう才能を持った人物が出そうにないときでも、出番到来と思って一気にイってしまわず、小出しにするか多少芝居じみていてもスポ根ドラマ的に励ますような方向が無難で効果的なのだ。 おそらくポール・オダフィーがまだエンジニアだった頃はこの才能を小出しにしてたことだろう。プロデューサーとなった彼は存分にイってしまっている。 さらに音楽プロデューサー、ポール・オダフィーについて・・・。彼は持っていると有利なはずの音楽知識を持ち合わせていない。それでも一級のプロデューサーでいられる好例だ。彼の周りには優秀なブレーンが集まってくる。それもまた彼の魅力の現れであり能力なのだ。 ここからは一般論・・・ 録りのエンジニアは時々原音のダイナミクスや波形までも変えてしまうようなエフェクトをかけ録りすることがあるが、この音楽でこのパートなら‘する’とか‘しない’とかを知識と経験、またアレンジャーやプレイヤーとのやりとりから判断する。が、パートによってはアレンジの意図が明確でないうちはバックアップなしにかけ録りするのは危険だ。かけ録りとは録音と同時に破壊編集(元のデータを変えてしまう)をするのと同じことで、取り返しのつく類のものではない。 また反面、コンピュータの進化のおかげで非破壊編集(元のデータはそのまま残る)できる部分がずいぶんと増えたようだが、これはこれで安易に結論を先送りするという害悪もあるのだ。なんでもかんでも、 「あとでコンピュータでなんとでもなるよね」 なんて、発言が出ると、顔では笑っているエンジニアも心の中ではがっくり肩を落としている。非破壊編集とはそういう潔くないプロデューサーを作り出す一因にもなるのだ。 それも音楽的理解があれば、自信を持って適切な行動がとれるのだ。つまずいても傷は浅く、それもまた経験として取り込む材料となる。プロデューサーの自信に裏付けられた言動は、周りのスタッフの作業効率を上げることにつながるのだ。(その自信は、経験や知識によって裏付けられる) 音楽制作現場では、スケジュール的にも強行となることが多く、朝方までのレコーディングが終わったかと思うと、数時間後には次のプログラムが入ってたりというようなことが何日か続くことがある。 アシスタントエンジニアはそんな状況でもミスで素材を消してしまうなんて論外だし、他の人達が帰ったあとで音楽的であるか否かのポイントとなる大事な判断を下さなければいけない作業を任されていたりもするのだ。さらにただでさえ何かトラブルがあるとアシスタントエンジニアが罪を被らされやすいうえに、長時間の作業では知力と体力の稼働配分も考えなければ体が持たない。 君たち!音楽制作スタッフをなめちゃいかんよ、大変な職業なのだ。 |
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コンサートツアーというと、一定期間中に何カ所かの会場でライブを行うことになる。それぞれの会場は固有の音響特性をを持っていて、音響スタッフは会場が変わるたびに最適な PA 機材のチューニングをしなくてはならず、それがまた非常に難しいのだ。 特に規模の大きい会場でのコンサートでは客席のポジションによる聞こえ方の違いも如実で、スピーカーのスタッキング(積み方)を含むチューニングが、より難しくなる。 (ここでは少しでも多くの人が理解しやすいように、音の周波数帯域の区分を低域とか高域というおおざっぱな表現を使います。) PAにせよ一般家庭のオーディオにせよ、スピーカーにはそれぞれ指向性といって、音が有効に伝わりやすい角度というものがある。指向性が鋭い(狭い)ということはスピーカーの正面で聴いている人にはよく聞こえていても、ちょっと正面からハズれると聞こえにくくなるということだ。スピ−カーやキャビネット個体にもよるが、極端な場合、席を一つ隣りに移動しただけでかなり違う聞こえ方に感じるときがある。 一般的に周波数が低くなれば指向性は広くなり、スピーカー正面とそれ以外の席との聞こえ方の差が小さくなり、さらには間に障害物があっても到達しやすい。みなさんも経験されたことがあると思うが、隣近所から音楽が回り回って漏れ聞こえてくる場合、それはやはり低域が主体だ。 逆にヘッドホンやイヤホンでポータブルオーディオを楽しんでいる人の傍を通ると、シャカシャカと高域ばかりが漏れ聞こえてくるが、これはまた指向性とは別の話になる。ヘッドホンにしてもイヤホンにしても構造はスピーカーと同じで、極端に口径の小さいスピーカーだと考えればよい。つまり口径が小さくなればなるほど低域の再生能力が無くなってくるので、ヘッドホンやイヤホンでは元々少ししか低域成分は含まれていないということだ。装着者本人は、その極端に口径の小さいスピーカーを耳に密着させることによって増幅される低域成分(近接効果)のおかげで、それなりの周波数特性を稼いでいる。 話を指向性に戻します。ライブハウス〜キャパシティー(収容人数)2千人くらいまでのホールの場合は、ギタリストのギターアンプがイギリス製ビッグアンプによく見られる12インチスピーカー4発入りの指向性の鋭いスピーカーキャビネットの場合はその正面の席で聴くとギターが大きく聞こえ、ちょっとハズれると嘘のように小さく感じることがある。その対策として、ギターアンプスピーカーからの音が、観客の耳に直接届かないように(またはギタリスト本人の耳に直接届くように)スピーカーキャビネットに仰角を設けたりする。しかし新宿厚生年金会館大ホールみたいな会場だと、それによって2階席を直撃するのでさらに上へ向けると、今度は3階席・・・結局、客席と反対側に向けたりすることもあるのだ。(大きい音を出すギタリストの場合) 一方、エンジニアはPAの特に中高域を担当するスピーカーのスタッキングを工夫し(力仕事、きついよ)、より多くの客席に同じように届くよう頭を悩ませ、最善の折衷ポイントを探すことになる。それでも届きにくい場所は、周波数の低い部分をより多く出すことによってある意味での穴埋めをしようとすると、低域の出過ぎた(高域の足りない)全体的に何となくこもった音になるのでこれまた難しい。 リスニングポイントの違いによる聞こえ方の違いをある程度解決したとして、低域から高域までのバランスが取れた状態で、ちょうどいい音量の音を聴いているとする。その状態で低域を増やしてやると。迫力を感じるとともに、ヴォーカルを始めとする中域で鳴っているものがマスキング(干渉)されて聞こえにくくなる。 ヴォーカルと言えばそれはメインであり、そのヴォーカルがマスキングされて聴き取りにくくなると歌詞が伝わりにくいわけでエンジニアの責任としては一大事なのだ。そこでヴォーカルを持ち上げる。ところが最初にちょうどいい音量で聴いていたので、ちょっと耳にいたい(全体に音量が大きい)のでマスターフェーダー(トータルの音量をコントロールするスライダーつまみ)を下げて全体の音量を最初と同じにする。 この状態は、最初の低域から高域までのバランスが取れた状態と比べてどう違うかというと、全体的にこもった音だったりするのだ。周波数特性とは相対的なもので、ある周波数を大きく出しても、その後の調整でトータルを下げれば(元に戻せば)さきほど上げた周波数以外の周波数が下がったのと同じになる。 また、アーティスト始め、パフォーマーからの要求や制作セクションからの要求、アーティストの所属事務所からの要求など、あちこちから聞こえてくる声にどう対処するかもPAエンジニアの頭を悩ませる。(ホントに!大変な職業なのだ) PAエンジニアにもいろんな考えを持った人がいて、もちろんセオリーもあるが、レコーディングと違って、始まってしまえば進行を止めることができないライブでは、とっさの柔軟性が要求されるが故に、レコーディングエンジニアよりセオリーそのものの幅も広く設定しておかなくてはいけないということがある。さらにその人のチュ−ニングする音的なキャラクター、周波数特性で言えば低域寄りの人、中高域寄りの人。音を積極的に作り上げるという考えの人、パフォーマーが出す音をできるだけ忠実に再現しようとする人。一般的な観客はバスドラムに迫力があれば(バランス的に出せば)ライブを実感しやすいということをどのように考え、またそれをどの程度実行し、その場合のマスキングへの対処等々、、、また同じエンジニアでもアーティストの音楽性によって、また会場の規模によってこの辺の方針が変わってきたりもする。(用意できる機材によって、ある種のひらめきで方針を変える場合もある) リスニングポイントにもよるが、曲の演奏中はもちろん、曲と曲の間のMC(しゃべり)の内容、特に高度なボケとツッコミ?でも一字一句聞き取れるほど素晴らしいチューニングのコンサートを観ると観客としてなんだか得した気分になる。 |
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楽曲を世の中の人達に聴いてもらう手段というと、今まで(2000年現在)だと最初に浮かぶのがCDのリリースということになる。CDにせよアナログレコードにせよリリースしてしまえばそこで終わり。売れない曲は何事も無かったかのように消えてゆき、売れる曲はというとセールスの記録を残してそこで終わる。リバイバルあるいは、リミックスやカバーという形で再評価される場合もあるが稀なことで、それだけの破格な扱いを受けるだけの価値と世相その他諸々とのタイミングの良さが必要だったりする。もちろん売れた曲は人々の記憶には残るし放送メディアでも「過去の曲」をオンエアーする事もあるが、やはりある意味終わったものなのである。 さらに、この売れる組に入るか売れない組に入るかはアーティストや作家にとって大きな問題で、オリコンチャートで大暴れすることを目標に置いていて且つその実績も可能性もある現場では制作費の枠も大きく、制作スタッフは売れることをイメージしながらの作業をしているので活気もある。 反面、そうでもないテキトーな現場もあって、 「まあこのてのCDはこれくらいの枚数(かなり少な目)売れるだろうからこれくらいの枚数(かなり少な目)プレスして・・・制作費はこのくらい(かなり少な目)で・・・」 かと思うと、 「このタレントはメーカーのイチオシ」 と聞いてたはずなのに沈黙の宣伝部とか・・・ 広告音楽を作る場合、これはこれで限られた予算と時間内でクライアントの要求に応えつつ別のベクトルの情熱を込めて作るのであって、たいていの書き下ろしのCM音楽の場合、アーティスティックな主張とはまた違う方向を向いている。 が、時としてその(アーティストとしての)主張と情熱を込めた曲のデモが、そういう目的にはそぐわない現場のスタッフの耳に止まることがある。 また、歌う本人の自覚が乏しかったり周りの体制が整ってなかったりとかで、どう考えても戦略的に難しいタレントだろうが企画だろうが、CDとしてリリースされるということだけで、作家はありがたがると思われてたりすると、なかなか話がかみ合わない。 「無駄撃ちはしたくないってこと?」 と聞かれたことがある。ごまかそうとするが実はその通りなのだ。世の中には無駄にリリースされた可哀想な楽曲がたくさんあるのだ。愛情を込めて作った楽曲はとてもいとおしいのである。他人はともかく自分では名作だと思っている。そんな大切な楽曲がひとりでも多くの人の耳に届くことをイメージするのはごく自然のことなのだ。 長年音楽に携わっていると新人アーティストのリリース前の音源を聴かせて頂くことがある。その中にはハッとするぐらい魅力的な楽曲もある。作品としてのクオリティーが高く、楽曲に対する愛情も感じるし、詞や曲を自分(達)で書いているアーティストのなかには稚拙な部分があったとしても強い情熱を感じたりもする。 そういうすばらしい作品を作る人達の中から案の定その後売れるケースもあるのだが、他のほとんどのアーティストの名前は何も聞こえてこない。バンドであればその後解散して個々のプレイヤーや作家やアレンジャー、プロデューサーとして名前を見ることもあるが、前述のようにリリースしたCDはそこで終わりなのだ、もったいない話である。 と、いうことで、そんなことはチャートで暴れてから言わんかい! |
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さて、きわめて個人的なものを除いて、果たしてこの世の中に何曲の楽曲が存在するのだろう。JASRAC(日本音楽著作権協会)のあり方は別として、著作権の保護は絶対に必要だ。そして著作権が早い者勝ちで存在する以上は未来永劫、悪意の有無に関わらず無限に著作権の侵害なしに書き下ろしの楽曲が作られ続けるとは考えにくい。芸術家を自負する僕はそうは思わないんだけど、素朴な人にとっては簡単な数学でしかなく、またそれが真実なのかもしれない。 現実的には、既存の楽曲との類似点を避けることにエネルギーを注ぐという作業になる場合もあり、そうしているうちに楽曲そのもののエネルギーが下がってくることもある。その時はまた白紙からのスタートとなる。 僕はものおもいにふけるなか、ひらめいたのだ(ピカッ!) 「これはいいメロディーが浮かんだぞ」 あわててギターを手にして発展させていった。8小節目まで進んだところで気がついた。 「何かに似てるような・・・」「ん?!」「○×□△に似てる?というか、まんまやないか?!」 聴いたことのある曲から無意識のうちに影響を受けたということになるのだが、同じ切り口からスタートして数少ない気持ちのいいところを選んで発展させていくと、8小節間まんまになってしまったということか? 年をとってくるとね、こういうことが起きる原因の一つに記憶力の低下が上げられる。 過去に聴いて印象に残った曲は記憶として蓄積され、必要なときに参照されるから同じものを作ってしまわないようにできるのだ。ところがある年齢をすぎると毎日とてつもない数の脳細胞が死んでいって、そのうち参照できるデータが欠落してくるのね。平たく言うと忘れちゃうってこと。メロディーまできれいさっぱり忘れてればいいんだけど、おぼろげにでもメロディーだけが脳裏に残ってた場合にこのようなことが起きる。悲しいもので、さっき言ったことをもう忘れてたりする今日この頃・・・ 僕はスポーツクラブで、ダンベルスクワットを10回×3セットやることになっているのだが、考え事をしながらやってると、たぶん2セット目ぐらいだと思うのだが、 「4,5,6・・あれっ!、、今1セット目?2セット目?」「どっち?」 トレーナーのおねーさんに聞いても、満面の笑みで会釈してくれるだけでそんな僕に近づいてこない。間違って4セットやってしまったときは、翌日の筋肉痛の度合いで判るのだ。 ロッカールームで、 「あ!オイラのGパンがないっ!」 と思って、下の方を見ると履いていたということが何度かあった。 自慢ではないが、朝(と言っても午後)何を食べたか思い出せない時がある。夕方5時をすぎると元気になる。 で、・・・記憶・・・その記憶とはまったく関係のない、聴いたことのない曲にでも信じられないほど似てしまうこともあるし、ソックリとは言わないまでも、多かれ少なかれ似てしまうこともあり、聴き比べてみて著作権を侵害していないかの判断をすることになる。 比較的はっきりしたものだと実際のレコーディングに至る前に作家なりヴォーカリストが自分で気付くし、そうでなくても何人かのスタッフの耳も通過するので、どこかで誰かが気付くだろうからそこで修正することもできる。しかしヴォーカリストが完璧に自分のスタイルで歌いこなしてしまっているようなケースでは新たな別の曲に聞こえ、歌入れに至ってもまだ誰も気付かないということもあり、仮歌の入った仮Mixを聴いた第三者からの指摘で初めて気付かされることもあり、場合によってはオケから録り直すこともある。 あるレベル以上のプロと呼ばれる人達のCD制作現場では、アーティスト周りのスタッフが誰も気付かなくても、他にもいろんな人達が関わっているのだから、そういうことがあってもどこかから指摘が来るだろう。 アマチュアのみなさんで、たとえそれが趣味であっても優れた作品ができれば、なんらかのかたちで世の中に発表することもあるかもしれない。特にすべてひとりで自宅でレコーディングを完結させる環境をお持ちの場合、気を付けないと、何日も部屋に閉じこもって、やっとマスタリングまでこぎ着けたと思って人に聴いてもらったとたん、 「これ、なんたらかんたらの、ん枚目のアルバムの、ん曲目のサビとまったくおんなじメロディーやな」 とか言われるようなことがあるかもしれない。果たしてそのなんたらかんたらのアルバムを調達してきて、件の曲のサビと聴き比べた結果、 「おーまいがー!これではどう聴いても著作権の侵害と言われてもしょうがないやんか!」 と、いうことにならないとも限らない。できれば途中経過の段階で、家族でも友人でも誰でもいいからそれとなく耳を通してもらうことも一つの方法だ。 |
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CDリリースという形は当分続くだろうし音楽業界にとって引き続き重要な役割を担っていくだろう。が、ここでさらなる選択肢がインターネット配信となる。 これを書いている時点(2000年9月)での僕のインターネット接続環境は 64kbps の ISDN 非常時接続だ。導入当時はすばらしく速くて快適に感じられたものだが、これでは音楽や映像のようなコンテンツをネット配信するには遅すぎて実用にならない上に非常時接続では課金が気になって辛いものがある。もちろん、さらなる圧縮アルゴリズムの最適化により圧縮率が上がるか、回線のスピードアップがはかられるか、まあその両方が進むのであろうけど、それによって音楽などのネット配信も確実に進むのだろう。 音楽のネット配信は、配信サイトにとってもアーティストにとっても現在のところ実験的意味合いが強く、どこのサイトでも配信収益のみで運営して行けるというものではないそうだ。 有料での音楽配信ということになるとビジネスということもあるだろうが、現段階でのネット配信の役割の一つに、ある程度オフィシャルな位置にある配信サイトであればCDをリリースしなくても楽曲の存在を世の中に登録するという効果もあるだろう。そうしているうちに「電子透かし」をはじめ、ネット上のデジタルコンテンツの著作権保護システムの確立に向けての技術開発も進んで行き、またそれと相反する技術も進んで著作権という考え方自体が大きく変化しようとしていくのかもしれない。 さて、現在勢いがあって大量のヒットCDをリリースし続けている人の楽曲はやはりどれをとってもクオリティーが高く、あるレベルを超えていてリリースに値すると思う。なかには「?」と思うものがあっても、音楽も他のエンターテイメントと同じく多様化し続けているし、企画色の強い物なら考え抜かれた戦略が当たれば聴く側の多人数の耳目を集中させることも可能となる。 大量のヒットCDをリリースし続けているということはすでにビッグネームであり、社会に対する影響も大きい。ビッグネームのマネジメントスタッフともなるとリリースの延期や中止ということも視野に入れておくぐらいの心構えは持っているもので、それが各セクションのスタッフに緊張感を持たせ、精鋭として昇華しているように思える。実際、誠実なビッグネームはときとしてそんなことで周りのスタッフをあわてさせ、それでもスタッフは追い込むことなく、諸問題に対しても周旋の末なんとかしてしまうのだ。 ではネット配信のフットワークの軽さがもたらす可能性は? 例えば未完成の状態で一度ネット上に置いてみて広く意見を求めるとか、アプリケーションソフトのようにバージョンを上げていって楽曲の完成度を上げる(上がるとは限らないが)ことができるということも一つにはあると思う。 多くのアーティストはCDリリース後、 「あそこをもうちょっと、こうすべきだったかなー」 音質改善後再配信、配信後に浮上してきたアイデアの付加後再配信、場合によっては歌詞やメロディーの変更後再配信など。 おいおい、ちょっとやりすぎだね、可能性を書いただけと解釈してね。そこまでやると著作権の所在を曖昧にし、複数の楽曲が同じ方向に向かっていく可能性もでてくる。そうなると、あるところからつまらなくなる。楽曲のアイデンティティーが薄らぐ手前で止めなければいけない。だって詰まるところ、楽曲の勝負どころはアイデンティティーなのだ。 CDはリリースした瞬間にアイデンティティーが確定されてしまうので潔いといえる。 アイデンティティーとは一見欠点に見えても、人々の心に引っかかり、実は魅力的だったりする。それこそ保護されるべき著作権と密接につながっている。 |
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僕はあるプロデューサーから、飲み屋さんでアイデンティティーの重要性をとくとくと説かれたことがある。 「こんちゃん(僕のことだ)、いちギタリストとしてもアイデンティティーがなければいけないんだよ。君はロン・ウッドになっちゃイカンのだ、キース・リチャードにならなくちゃ・・・ウーイ・ゲホゲホ・ゲップ・カ〜ッぺっ!」「ガクッ」 「あ…!そんなとこに唾を・・・あの〜、それとボク、ロン・ウッド好きだったりするんですけどぉ、でもちょっと言ってること分かるですハイ・・・もしもし?僕のはなし聞いてます?」 アイデンティティーに関しては、メインヴォーカルをとるアーティストならさらに重要なことであり、そのアーティストのミュージックシーンにおけるポジションとあり方に対して理解しているスタッフは、その確立と保護に協力する。そしてそれまでの活動でアイデンティティーを十分確立していて、さらなる確立を求めていくうちにそれが変化につながり、その時のアーティストの気持ちと一部の(場合によっては大方の)聴く側の人達の気持ちがかい離する場合もある。 多くのアーティスト系ファンクラブで行われていることの一つとして、時々会員に対してアンケートをとることがある。そしてそのアンケートの結果によってどういう行動をとるかはアーティストによってまちまちだ。それはそのアーティストの音楽性にもよるがエネルギーの多少によるところも大きい。 活動年数が長ければファンの年齢層も幅広く、ファン歴の長い人はそのアーティストに対する情熱も強く、自分の青春そのものだったりする場合が多い。そして新しくリリースされるCDは別として、ファン歴の長い人にとってはライブで自分の青春との関わりの深い楽曲が歌われるかどうかはとても大事なことで、そういう人達はアーティストにとってもまた大事な人達なのだ。 ライブで歌って欲しい楽曲というアンケートの場合、当然その気持ちに素直に書くことになる。果たして希望の楽曲が歌われたとしても歌い方がリリース当時と違っていたり、アレンジが変更されていると。これまた違うという人がでてくる。さらには希望の楽曲がほとんど歌われなかったりすると、さらにアーティストとの距離を感じる。 逆に、やっぱりアーティストにとってファンは大事ということで、できる限りアンケート結果の最大公約数に基づいたコンサート作りを目指した場合。これはある意味ではエネルギーが少なくてすむのだが、大きな会場でもそれが主流になってくるとエネルギー感覚が変化し、知らず知らずのうちに必要以上に制御の方向に向かう場合もある。それも意図的に絶妙な制御の中で感じるパワー感があれば問題ではないが、、、 エネルギーの大きいアーティストは、ディナーショーのような企画色の強いライブを除き、そのエネルギーの源が新たな主張だったりするから新しいものを創り出そうとするがために実験的なこともする。それが新たなアイデンティティーにつながり、それを受け入れようとする人達もいるのだ。 パフォーマー(ステージ上のアーティストやミュージシャン)はオーディエンスに学習を強要してはいけない。反面、それと同時に迎合してもいけない。パフォーマーだけでなく、スタッフもその辺の折り合いを模索しながらリハーサルやステージ作りをしていくことになる。 |
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アーティストには、新しいものを求めようとする欲求がある。新しいものと言ってもそこにはある種の主張があり、主張というぐらいだからそこにはひとすじの一貫性がある。一貫性というのはある意味で幅が狭い、言いかえると幅が狭いから一貫性があるといえ、それがアイデンティティーにつながる。 アーティストとしてのアイデンティティーは、その人の思想や音楽的バックボーンに基づいて、歌詞、メロディー、歌い方、見え方、声質、etc....と、なって表面化する。 歌詞はアイデンティティーが現れやすい部分で、実際に意味のある言葉を口から発するのだから、あまり幅が広がるとアーティストとしてのイメージが散漫になりやすく、それにヴォーカリスト自らが作詞している場合は自分の口から発する言葉なので、その時点で本意にそぐわないことは書きたくないので当然責任を持って自分が自分であるために自ずとその幅を抑制しながら新しい切り口を求めている。 それでは歌詞ではなく、曲とかアレンジとかのいわゆるサウンド面ではどうだろう。歌詞よりはある程度自由に幅を広げることができるといえる。そして歌唱力も音楽性も高いアーティストは、そういった音楽性の幅も広がりやすく、どこまで広げればアイデンティティーが希薄になり始めるかの微妙なポイントを模索していくことになるのだ。 音楽性の幅が広がるというと一見良いことのように聞こえるが、実績を積んだアーティストには、逆に一歩後退の印象がでてくる時がある。そこでビジョンのあるアーティストは、あえてその幅をアイデンティティーが保てる程度の広さに抑制することとなり、その方向がどちらを向くべきかというのは、それまでの軌跡からアーティスト自らが指し示す方向と、プロデューサーやミュージシャン等とのコラボレートで大体は決まってくる。かくして暗黙のうちに他の関係スタッフも同じ方向をターゲットとし、力がその幅の範囲内に結集されるのだ。一丸(イチガン)となるというのはこういうことだ。 若き日の僕に影響を与えてくれたアーティストのライブがガラリと変貌を遂げていたとしても、そこにあの日感じた強烈な印象の流れを感じられれば嬉しくなり、逆に様々な意見を満たして多彩になり、アイデンティティーの片鱗が見えにくくなるほど広範になっているのを見たとき、 「まだ早いんじゃないですか?」 というような、ある種の切なさを感じてしまうことがある。それも一つの在り方として正しく年輪を重ねているアーティストに対してこんなことを感じてしまうのは自分が若輩故のことであるのも解っているつもりで、また逆に一日でも長く若輩であり続けようと自身の在り方についてこだわっている諸先輩方との関わりでは、たくましさを感じたりもする。 好きな音楽を職業にした人達が、判断の岐路に立たされたては切磋琢磨しながらのコラボレート。ビジョンを持ったアーティストとの関わりからはインスパアイアも多く、制御された広がりの中に新しい発見がある。アマチュアで音楽をやっているときには考慮しなかったようなサジ加減みたいなことが結果を大きく左右することもあり、いろいろあってそれがまたおもしろかったりするのね! |